さて、『メッセージ』の考察をさっそく始めよう。ご存知の方々が多いとは思うが、『メッセージ』はテッドチャンの「あなたの人生の物語」を原作とした作品である。この作品は言語学、物理学に限らず様々な知見から考察を深めることが出来る多様な側面を持った作品だが、当然ここでは物理学的な側面から『メッセージ』をその思考の刃で切ることにしよう。『メッセージ』に深く関係のある物理学とは一体なんだろうか?それは解析力学と呼ばれる18世期頃に大成した力学分野である。
解析力学の数学的な体系を理解するためには、まず力学ないしは物理学とはいかなる学問なのか、という部分を明確にしておかなくてはならない。そこでまずはニュートン力学を題材にとって、「物理をする」ことの意義と意味を把握していこう。
古典力学の体系、世界観
初対面の人に大学院まで行って何をやっているのか、と聞かれたとき「物理学」と答えると「出た物理」とか「うわ…」という反応を受けることがある。何かと嫌厭されることの多い学問だが、物理学とは詰まるところ何を目指し、何を行う学問なのだろうか。
ここに唯一の明確な答えを提示するのは不可能だが、とりあえず今の文脈では物理学とは「現在の情報から未来を予言すること」だと言える。実のところ、現代の物理学はもはやこの範疇から脱してしまったとも言えるのだが、物理学のそもそもの存在意義を考えるための取っ掛かりとしては十分に機能するはずである。未来の予言という世迷言な台詞は科学とは相容れないものだと思えるかもしれないが、物理学における特に力学という分野は本当の意味で詰まるところ「現象の予言」を行っているに過ぎない。
例えば手に持った消しゴムを適当な角度で斜めに投げたとき、消しゴムは必ず放物軌道を描くはずだ。これは何百回、何万回繰り返したとしても、地球上で実験を繰り返している限り、軌道が放物線軌道からズレることは無い。投げたと思ったらブーメランのように消しゴムが戻ってくるとか、そのまま地上に落ちずに真っ直ぐに飛び続けるとか、そんなことは試行回数をいくら増やしても出会える現象ではないことは説明するまでもないはずだ。しかし、立ち止まって考えるとなぜ“そう”なのだろうか?なぜ自然はこんなにも再現性があるのだろうか?考えてみると不思議である。
地球の中心方向に向かって重力が働いているから、と言うのが1つの答えなのだろう。確かに物理学的にも、「重力」という力が消しゴムに常に下向きに働いていることを想定し、消しゴムの運動軌道の計算を行うと、加速度と速度のベクトルにズレがあればその軌道は「放物線軌道」になる、ということを数学的に示すことが可能である。しかし、この科学的な思考は「自然には再現性がある」ということの前提の上に成り立っている議論であるということに注意して欲しい。何百回、何万回同じ試行を繰り返したとしても、その次の一回の試行がこれまでと同じ結果を与えるとは言えないということである。既に過去に起こった事象を指して、「起こった」とするのは間違いがないが、まだ「起こってない」事象の実現可能性を過去の累積した試行から経験的に絶対に「起こる」と断定するのは論理的にそもそも不可能である。あくまで確率が高いというだけであって、その確率は正解に1になることは起こり得ない。
しかしここに疑問を挟んでしまうと、一歩も前に進むことが出来ないため科学は1つの仮定を置くことでこの先の議論を可能にする。それは「科学的帰納法」と呼ばれる仮定に基づいた手法である。ここでいう帰納法とは観察や実験を通して集めた個々の経験的な事実から、それらに共通する普遍的な法則を導き出し、以降同じ事象に言及する際は、同様の物理法則が成り立っているとして議論を始める、という考え方のことである。言われれば当たり前の話だ。
話が前後して申し訳ないが、科学とは詮ずるに「なぜその再現性が成り立つか」という根源的な疑問には答えることは出来ない。というより人間知性、またはその扱う数学言語の論理性の囲いを超えるようなことは出来ないのだ、と言ってしまうこともできるだろう。
だがこの部分にこそ、この底の無い自然の美しく面白い部分が見えているところだと思える。だって、考えてみて欲しい。この世界は貴方がが造ったものでも、私が造ったものでもない。そうじゃないのにも限らず、見渡す限りのこの世界には一定のルール(法則)が存在している。論理的には消しゴムが放物線以外の軌道をとることには何に問題もないはずである。しかし自然はランダムに見える事象の中でも確かに一定の法則の元で動く。これこそ神秘的ではないだろうか。別に神の存在を感じよう、とかそんな話ではないが、この「不思議」は自然へ好奇心を向けることの出発点になるのではないだろうか。

さて、随分話が遠くへ飛んでしまったものだが、話を元に戻そう。そう、科学とは「現在の情報から未来を予言すること」であった。先ほどの消しゴムの例で言えば、消しゴムに働いている力(主に重力)を数値化し、消しゴムに与えられた初速度も数値化する。その上で、経験的に正しいと分かっている「運動の法則」にこれらの数値を代入し、その方程式を解くことで、将来その消しゴムが辿る軌跡を導出することができる。これが物理学である。
ここで消しゴムを投げるというしょうもない例を選んでいるのには訳がある。物理学とは何か、という話をするのに「役に立つ」ような事例を最初から持ってきてしまうと誤解釈を与えかねないからである。我々人間社会への貢献性のあるなしを科学の定義、イメージに入れてしまうと、工学との境界線が曖昧になってしまうからだ。現に最近スーパーコンピュータ富岳で騒いでいた件から、人々の計算機科学への理解度の低さが読み取れる。
それはさておき、この「運動の法則」部分を担っているのが物理学でいう力学という分野である。「運動の法則」とは具体的に言えば、多くの場合下の運動方程式を意味する。
$$ma=F$$
運動方程式のmは質量、aは加速度、Fは物体に働いている力を意味している。消しゴムの質量は測定することが可能であり、働く力も数値化するコトができるから、上記の運動方程式から物体の加速度aを我々は知ることが出来る。投げた消しゴムが順調に飛んでいく最中、突然横から扇風機の爆風を消しゴムが浴びさせられたしよう。この場合、消しゴムに現在形で働く力が過去のものと変わることになる。こうなった場合、もう一度運動方程式の計算を初めから行う必要がある。運動方程式における右辺の力Fが変わったのだから、それに応じて消しゴムの加速度a、つまり消しゴムの運動挙動が変わることになるからである。
厳密に言えば、空気中を飛ぶ消しゴムに働く力は刻一刻と変わっているだろう。地球の中心との距離が毎秒僅かに変わっている訳だから、重力の大きさも変わっていくだろうし、大気圧や空気抵抗など、消しゴムに働く考えうるあらゆる力は過去のそれとはまた異なる関数系を見せるだろう。ここまで厳密になれば、運動方程式は各々の一瞬で成り立ち、従って導出された加速度がその場で決定・実行され、このプロセスが繰り返されていく。現在のその一瞬の情報がその次の瞬間である未来の状態を決定し、さらにその未来の情報がその次の未来の状態を決定し、というようにドミノ倒しのように因果関係が未来方向に伝播していく。このような力学的世界観は、逐次発展的世界観と呼ぶことが出来る。
17世紀の学者であるアイザック・ニュートンが確立した「世界の見方」が逐次的な描像を持つ古典力学である。ニュートンの名前を冠して、ニュートン力学とも言う。ニュートン力学はこの逐次的な世界観に立脚した「世界の予言方法」の1つである。ここまで話した運動方程式がどうだとかいう話は、実際に現実に起こっている現象を説明、予測(予言)出来なければ意味が無い。占星術などとは違って外れたり、当たったりしてはならない。ニュートンが提唱した「世界の見方」が近代科学であるためには、その未来の予測(予言)が必ず当たらなければならない。
実際ニュートンの力学は明確な反証可能性の下に次々に未来の予言を成功してみせた。単なる鉄球の運動の予測に止まらず、私たちの生活スケールとは比べ物にならない太陽やその他の惑星・恒星といった天体の運動の解析も行ってみせた。ニュートン力学は私たちの身の回りの世界にずっと昔から潜んでいた確かなルールを鮮やかに暴き出し、神が行うチェスを横から覗き見る機会を与えてくれたのである。
さてここまででひとまずニュートン力学について扱うことが出来たので、次に『メッセージ』がそもそもどんな話だったのかについて、一度簡単にまとめておきたい。そしてニュートンの後の時代に登場した解析力学というまた別の世界観を持った力学体系について考察を行おう。
『メッセージ』とはどのような作品か
『メッセージ』という作品は、実は「光」の特異な性質から出発した作品である。光の特異な性質とは何か、それは光の屈折現象から考えることができる。真空中を伝わる光は、光の進行を邪魔する物質が他にいないため、直進する。つまり光の出発点と終点を決めたとき、それら2点を結ぶ真っ直ぐな道筋が光が辿る経路だといえるだろう。

しかし、光が真空中から水に満たされた空間に入射した始めると、光の経路は直線でなくなる。光の経路が折れ曲がるため、上の写真のように、コップの中の水の存在により景色が「折れ曲がる」ことになる。このような光の屈折は小学校の理科で習う内容だが、そもそもなぜ「曲がる」のだろうか?何もない真空中を直進するのは良いとしても、なぜ水といった物質が存在する層に光が入射すると折れ曲がるのか?丸く曲がるとか、関係なく直進するとか、もはや光が止められてしまうとか、正直何でも良さそうである。
屈折という現象は簡単に実験で確認することが出来るから、「自然がそうだからそうなのだ」と言ってしまえば終わりなのかもしれないが、実はこの「光の屈折」という現象の裏には深遠な数学が隠されているのだ。この先の説明は物理学者ファインマンの説明手法を借りたものである。ビーチで男性/女性が(点Sで)溺れていたとする。図の点Lにいる貴方は急いで溺れている人を助けに行こうとするが、「最短の時間で済むルート」を選択しなければならないことに無意識にも気づくだろう。

点Lから出発して、点Aを通り、点Sに辿り着くルートは一見効率的なルートに見えるが、海に入って泳ぐ時間がその分長くなってしまう。しかしなるべく泳ぐ距離を短くしようとして点Bまで大回りしてしまったら、総距離が長くなってしまってまた非効率である。ここは、これら2つのルートの丁度良い塩梅を取る必要がある。咄嗟にそう計算した貴方は、図の点Cを通る経路を選択し、無事に救出劇を成功に収めた。
さて、こんな話が一体光の何に関係あるのだろうか。実はこれはある意味で「光の気持ち」を表現した妙例なのである。実は光にはこんな性質がある。「光は最小時間になるような経路を選択する」これをフェルマーの最小作用の原理という。どういうことかと言うと、光は始点と終点さえ与えられれば、2点を結ぶ経路のうち「最も時間のかからない」ルートを通る、ということである。先の海の例でいえば、貴方はこのルートの方が良いかな?あのルートの方がいいかな?と色々考えたり、試したりする中で、「最小時間な」経路だと思われる経路を選択することは出来るが、それが「真に最も時間のかからない」ルートかどうかは超精密な測定をするまで知る由もないだろう。それこそ神のみぞ知る、というところかもしれない。
しかし、光となると話は変わってくる。光はそんなことはもうご存知なのだ。光は可能な道筋の全てを検討し、所用時間を計測する必要が最初から無いのだ。むしろ逆で、「光の通った道筋」が最も効率的な経路となるのだ。これが光の特異な性質である。非常に不思議に思えるが、この性質をフィクションの方向へと繋げるなら、こんな考え方が面白いかもしれない。「光の経路は宇宙が誕生したときから最初に決まっているのではないか?まるで役者のセリフが決まっているみたいに。光にとって過去や未来という概念は無意味で、光は決まった道筋を通るだけなのではないだろうか?」
さて、この光の特異な性質は数学的には「変分原理」という形で定式化されている。この変分原理は数学的には中々高等な概念であり、難しい。つまり知らなくても、実生活で困ることは何も無いだろう。たとえ変分原理を知らなくても、簡単な四則演算くらいが出来れば日常生活に支障は全く無いからである。つまりこれはすなわち、「我々人間の数学体系は足し算や掛け算といった事柄(概念)については簡単に捉えられるものとして表現されているが、反対に光の性質について語ることは難しいこととして捉えられている」ということを示しているんじゃないだろうか。
ならば、、この我々人間の数学体系とは全く逆のアプローチに出発した数学体系を持つ知的生命体がいたらどうだろう?つまりその生命にとって、光の性質は我々が足し算をするが如く自明な性質なのである。逆に掛け算や引き算といった簡単な計算は至極難しいもの、として彼らの目には写っている。こんな知的生命体がいたとして、人類がこの生命体に邂逅を果たしたら一体どんな化学反応が起こるというのだろうか?
この生命体がヘプタポッドであり、その邂逅を描いたのが今作「メッセージ」である。
ヘプタポッドらが持つ世界観は実は解析力学という(実際に現実に存在する)力学分野が持つ世界観と同じものである。解析力学とはニュートンが構築したニュートン力学の後に登場した新たな力学分野(つまり新たな世界の記述方法)であり、ニュートンの時代よりも数学がさらに発達した時代(18-19世紀)に定式化されたものだったため、その中身は非常に抽象的である。
解析力学はニュートン力学のように運動方程式から出発しない。王である運動方程式を生み出すような存在、作用という量から出発する。つまり王の親のような存在であり、以下のように書かれる。
\[
S=\int \mathcal{L}(q(t),\dot q(t))dt
\]
左辺のSという量が作用で、右辺のはラグランジアンと呼ばれる量である。この理論では、まず未来発展を記述したい物体の始時刻における地点と終時刻における地点を時空的な仮想経路で結び、その経路1つあたりに作用Sという量を定める。2つの地点を通るような経路は無数に考えられる。無数の経路のうち、1つだけの経路が実際に物体が未来に実現することになる経路である。
そのような経路は、解析力学では作用Sが最も小さい経路と言い換えられている。これを最小作用の原理と呼ぶ。つまり運動方程式の親に値する存在である。過去から未来に渡る無数の経路を考え、そのうち作用という量が最小となる経路が現実に実現する──これが解析力学の世界観である。
例えば、投げたボールが放物線軌道を描くというのも、これは放物線軌道が始点と終点を結ぶ経路のうち作用という量が最も小さい量であるからに過ぎない。この宇宙のあらゆる物体が辿る経路はあらかじめ作用という量が最小になるようなものとして決定されている、と解析力学は主張するわけだ。
ニュートン力学では現在の情報から、その次の無限小先の未来が決まり、さらにその次の無限小先の未来が決まっていき…と因果関係の連鎖が続いていくようにして時間発展が記述されるのであった。これに対して解析力学では、始点と終点は単なる境界点として扱われる。時空上の2点を指定すると、経路が1つに決定される。ここに逐次発展型の時間観はない。同じ決定論的といえる2つの力学体系も、このように異なる世界観を持つ。しかしどちらも同じ”力学”という科学的手法には違いないから同じ内容の予言を行うのは保証されている。考え方の違いに過ぎない。
さて、ここまででニュートン力学と解析力学の違いについて解説することが出来たが、具体的に今回の連載で何を考察していくのかを明確にしておこう。今回の連載で明らかにしたい項目は下の4つの疑問である。どれも簡単には答えられないものばかりだ。最終的には量子論との関係も述べていくつもりだ。
最小作用の原理に基づいて達成されるのは最短時間の行程なのか?
未来を知ることはその回避の不可能性と矛盾しないのか?自由意志との両立は不可能か?
ルイーズはなぜ未来を受け入れたのか?
この物語と量子的な不確定性は関係が無いのか?ファインマン経路積分との関係は?
字数の関係で全ての項目を一回で消化することは出来ないが、今回はまず一番目の項目について考察を深めていきたい。
最小作用の原理に基づいて達成されるのは最短時間の行程なのか?
この部分は誤解が生じやすい部分である。光の性質について説明した際、光は所用時間が最短になるような経路を通る、と説明したが厳密に言うと「最短(時間)」というのは正しくない。「フェルマーの最小作用の原理」における最小とは、正確には“極値“を意味する。一般に極値とは関数における局所的な最小値または最大値のことを指し、図のようなグラフの山と谷の頂上点に対応する値のことである。日本の阿蘇山の頂上は“極値(極大値)”と言えるが、日本国内で達成しうる最大標高ではないため最大値とは言えないだろう。この場合、最大値は言わずもがな富士山の頂上ただ一つである。一般に最大値は普通1つだけしか存在しない。しかし、極値(極大値と極小値)は山の例のように無数に存在する。
フェルマーの最小作用の原理における“最小“は実はこの意味で言う“極値“である。作用という量が“極値“を取ったとき、それに従う経路(行程)が現実に達成される、という意味内容である。それなら最初から極値と言えば良いのに、と思われるのも最もなのだが物理学の法則名や記法などは歴史に依存する部分が大きく、必ずしも合理的な命名・手法が取り入れられているわけではない。これ以降「最小」という言葉が作用にかかる形でくっついていたら、“極値“と読み替えて欲しい。
そしてまた1つ留意しなければならないのは、最小「時間」と言ったり最小「作用」と言ったり、一体どっちなのだということについてである。人間の一生、そしてヘプタボッドの一生(もしくは種としての一生、あるいは宇宙そのものの一生)を考えたとき、別にそれらが辿る経路が常に時間的に最小なものであるとは限らない。「最小時間」というのは実は光の場合に限る話であり、一般の粒子(我々は陽子や中性子といった粒子の集合体である)については最小になるのは作用である。作用はその物体のエネルギーや外界からどのような力を受けているかによって決まるラグランジアンという量によって計算される。ラグランジアンと呼ばれる量がどのような数学的表式を持っているか、ということについてはここでは割愛させていただくが、何にせよ注目物体(粒子)の時空間上の始点と終点を定めた軌跡に対応する抽象的な量である。
ここまで抽象的な話が続いてきたが話を『メッセージ』に戻そう。ヘプタボッドらが持つ目的論的世界観(ないし解析力学的世界観)は、彼ら(ヘプタボッド)の時空間上の軌跡を唯一に制限する。彼らの言語から由来するヘプタボッドらの世界観では、作用の“最小化“が至上命題なのだ。例えば1個体のヘプタボッドが生まれた時点を始点、未来のある時点で死んだときそこを終点と定めると、その始点と終点を結んだ“人生“は無数に考えられるが、始点と終点を定めた段階でヘプタボッドの“一生“は既に決定している。くどいようだが、なぜならその一生が作用の最小化が実現する定められた経路だからだ。
ここでも1つ疑問を挟むことができる。始点と終点をどこに置くかをそもそもどうやって決めるのか?先の例では仮にヘプタボッドの一生の始まりと終わりを始点と終点に取ったが、これには別に合理的な理由があるわけでもない。神がヘプタボッドをこの世界の主人公としているのならまだしも、一介の知的生命体に過ぎないヘプタボッドだけをこうして特別視するのは不自然だろう。実際に物理学の現場では、宇宙全体の作用を考えることがよくある。宇宙の始まりを始点、終わりを終点と定めた上で作用を書き下した“究極の数式“とも言えるのが下記である。
「なぜ人間に言語を与えるのか?」という問いにヘプタボッドが「3000年後に人間に助けられるから」と答えたが、果たしてヘプタボッドの寿命は何年間なのだろうか。仮にこの「3000年後」という言葉が次世代のヘプタボッドが人間から授かる恩恵について言及したものだとしたら、ヘプタボッドたちを動かしている作用は宇宙全体の作用と言って構わないだろう。ヘプタボッドの種としての作用(絶滅が終点)を考えることもできるが、それもあくまで宇宙全体の作用の一部分の作用に過ぎないので、結局のところ切り取った作用にせよ全体の作用にせよ、その流れに身を任せている生命体の行動に違いは出ない。川に流されてる物体にとって、それがどこから流れてきたかという事実はその「流され方」に意味のある影響を与えないだろう。
(なお、3000年のくだりは原作にはない。正直なところこの部分は明らかに余計である。このようにヘプタボッドの地球到来の理由を説明してしまうのは野暮もいいところだし、なにより何か“特定の未来“の実現という目的を指針として行動を決定するというのは、ここまで説明した目的論的世界観における“目的“とはその意味内容に於いてくい違っているんじゃないだろうか。その目的を人間の前で吐露することも、彼らが演じるべき現実の一瞬だったと簡易的に解釈することもできるが、何かこう実に人間味のある台詞を感じてしまう部分である)
ここまでの話をまとめると、ヘプタボッドたちは最短時間を常に実現しようとする生き急いだ生命体なのではなく、過去と未来を決定したときに定まる作用と呼ばれる量を最小化するように行動している、ということである。ここで誤解が生まれやすいのは、だからと言って我々が作用の最小化から逃れられているわけではない。そしてヘプタボッドらも同様にニュートン力学的な逐次発展的世界観から免れてるわけではない。自然界で生活する我々人間の挙動の一切は作用を当然のことながら最小化していることを忘れてはならない。解析力学的な世界観や逐次発展的な世界観はどこまでいっても“世界観“に過ぎない。元はと言えばこれら2つの世界観は、運動の微分方程式を解くのにその境界条件(方程式を解くのに必要な条件のこと)をどう定めるかの違いに過ぎない。そのように世界を見ると、現象の予言という物理学の目的が達成出来るということであって、実際に、本当の意味で自然が、あるいは神がその世界観の下で世界を動かしているということを物理学は意味しない。如何なる世界観でこの自然界が成り立っているかはその神に聞いてみることでしか知り得ないだろう。この領域は現状の科学の範疇ではない。
すなわち、この物語は決して“人間と神との邂逅の物語“ではない。ヘプタボッドはその能力の高さからして、「まるで神のような生命体」と比喩を加えてしまいそうになるが、この物語は神ではなく、何処までも異なる世界観を持つ知的生命体との言語学的階層での邂逅を描いた物語である。ここまで説明してきたように我々人間はその世界観を表面的には“解析力学的世界観“として理解することができるが、ニュートン力学的な逐次発展的世界観にドップリと浸かった我々を引き釣り出すには、ヘプタボッドらの言語の理解が必要だった、ということである。
映画の方はここまでの形で綺麗にまとまりを持たせていたが、原作のルイーズはそれこそヘプタボッド語の本の出版が出来る程にはその言語を理解することが出来ていなかった。その理解は不完全だったのである。この意味では、「3000年後〜」のくだりの正当化は寧ろ原作側の不完全な理解という物語的着地によって為されたことだろう。
人間とヘプタポッドらの世界観の違いを図示するとこんな具合である。

最後にここまでの話に関係のある部分を原作から抜粋しておこう。
「へプタポッドたちは自由でもなければ束縛されてもいない。〝それら〟は意志に従って行動するわけでもなければ、救いがたい自動機械でもない」
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