前回の第1回の連載では、要約すると以下のような内容を扱ったわけである。
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如何にも専門書にあるような文体だが、1つ1つのキーワードをおさえてさえいれば、特別大したことを言っているわけではないのに気づくだろう。兎にも角にも私たちは、力学と電磁気学という物理学における二分野の融合を考えていくには、ガリレイ変換という古い考えを捨て去り、ローレンツ変換なる新しい変換規則を導入する必要がある──という統合理論「相対性理論」に至るまでの物理学者らが踏んだ歴史的なステップを把握することが出来ている。
とは言うものの、「ガリレイ変換」、「ローレンツ変換」とは結局一体何なのか。前回の連載で、力学と電磁気学を題材に2つの変換がどのような場面で利用される概念かを大まかに明確化することは出来たものの、その数学的な実体についてはまだ言及していない。きっと読者の皆様は「とりあえず、そういうものなんだ」という理解に留まっている筈である。「ガリレイ変換」、「ローレンツ変換」という2つの言葉は未だ読者の方々にとって、何か口を意識的にモゴモゴさせる必要のある慣れない未知の言葉だと感じているのではないだろうか?
前にフィリピンの孤島に行った際、ジャングルワイン(現地語で”トバ”)というココナッツジュースを発酵させたお酒を飲む機会があった。実際に飲む以前から文献でその名を知ってはいたものの、長い間の滞在で何度も飲んでみて初めて”トバ”という名が身体に刻印されてしっくりきたと感じたものである。
ガリレイ変換、ローレンツ変換という専門用語がしっくりくるものにする為には、実際にその数学的な形態に触れ、飲み込んでみる必要がどうしてある。結局相対論の真の理解の為には、日常言語である日本語や英語の世界から数式言語の世界に身を置く必要があるのである。しかしこの連載を数式が群雄割拠するものとしたくない、というのは前回でも申し上げた通りである。というわけで今回も数式をなるべく登場させない代わりに、相対論でよく使われる専門用語を頻繁に定義していく。段々連載を重ねるごとに、本文中で使われる専門用語に違和感を感じなくなったとき、それは相対論への理解度が確実に上がったことを意味する。
さて今回は、各理論における時間観の変遷をみていこう。相対性理論が登場する前の2つの力学理論では、どのように時間というものが捉えれれていたのか。そのような部分にクローズアップする中で、時空や事象といった言葉の整理をしていく。
ニュートン力学における時間観
まずニュートンの理論の中で規定されている時間概念からみていこう。力学における時間は「絶対時間」と分類される時間であり、普段生活している上で感じる時の流れ、すなわち最も直観的な時間概念に等しいと感じるものである。
力学ではまず手順として、未来予測を行いたい対象を質点として扱うことから始める。質点とは質量だけがあって、大きさがない理想上の物体のことを意味する。投げたボールの軌道を予測するという未来予知を力学計算で達成したいとき、ボールの大きさという性質は軌道にそこまでの影響を与えないため、初めから考えない方が計算が複雑になるのを防ぐことが出来る。そのため物体から「大きさ」という性質を排除し、扱いをシンプルにしたものが「質点」である。
もしボールに大きさがあることによる様々な影響(空気抵抗等)が、予測値に優意な差を与えるのならば、考え直さなければならない。ただ、その場合は再び「大きさ」の性質をどう計算に入れ込むかを考えてあげればいいだけの話であり、とりあえず問題にならない限りニュートン力学は、物体を大きさを排除された「質点」として扱うことから出発する。
さて、そのような「質点」の未来を予言したいときはどうするか。力学は1つの方法しか提示しない。与えられた世界の条件の下で、質点を主役にした運動方程式を書くのである。この辺りは前回でも触れたはずだ。
$$ma=F$$
運動方程式という方程式を「解く」のに必要な情報は、現時刻における質点の速度、加速度の2つと、質点に働いている力の情報である。これらの情報を完全に手にすることが出来れば、質点の時間発展を運動方程式を積分することによって知ることが出来る。
これは宇宙全体にわたる現在の情報を全て握収することが出来れば、未来を完全に予知することが出来るということを極論的に意味する。そのような仮想上の知的存在を「ラプラスの魔」と呼ぶのは有名な話だろう。ラプラスの魔の存在を仮定できる力学体系は、決定論的であることが見てとれる。
前回の連載で扱ったように、1人の観測者から別の観測者に移るとは、物理学的には「ガリレイ変換」を行うのと同じ意味といった。ニュートン力学ではマシューから高橋、高橋からクリスにガリレイ変換を及ぼしていっても、それぞれが慣性系である限り運動方程式は形を変えない。ガリレイ変換は、速度の足し引きで1人の観測者から別の観測者に移る変換であったことを思い出して欲しい。この2人の観測者の変換規則を定めているのは「速度」という情報のみであって、さらにその「速度」という情報はマシューの時間と高橋の時間が全く同じ時間を過ごしていることを暗に仮定していることに気づきたい。
ニュートン力学は全ての観測者に対してこれを仮定している。つまり全宇宙に流れる時間はあらゆる場所で同じように流れ、観測者から観測者にガリレイ変換で移ったとしても(すなわち見方を変えるとき)、流れる時間の早さが突然変わったりすることがないことを約束事として定めている。
日常我々はこれを当然の事実として認識している。誰も自分が過ごす時間と他者が過ごす時間が違うだなんて思わない。その感覚は経験則的にも明らかであるし、そのような仮定をニュートン力学の前提に置くのは必然だろう。まとめると、ニュートン力学は全ての存在が同じ時間の流れを共有すると考える。
解析力学における時間観
この解析力学という言葉に馴染みがある人は少ないだろう。解析力学はニュートン力学の後に確立された力学分野で、ニュートン力学とはまた異なった世界の見方を採用している。
まずニュートン力学では運動方程式がすべてを統括する王であった。運動方程式が正確に書かれば、現在から1兆分の1秒、1億分の1秒……数秒後の未来と逐次発展型に未来の状況を計算することが可能になる。
対して、解析力学は運動方程式から出発しない。王である運動方程式を生み出すような存在、作用という量から出発する。つまり王の親のような存在である。それは以下のように書かれる。
\[
S=\int \mathcal{L}(q(t),\dot q(t))dt
\]
左辺のSという量が作用で、右辺のはラグランジアンと呼ばれる量である。この理論では、まず未来発展を記述したい物体の始時刻における地点と終時刻における地点を経路で結び、その経路1つあたりに作用Sという量を定める。2つの地点を通るような経路は無数に考えられる。無数の経路のうち、1つだけの経路が実際に物体が未来に実現することになる経路である。
そのような経路は、解析力学では作用Sが最も小さい経路と言い換えられる。これを最小作用の原理と呼ぶ。運動方程式の親なる存在である。過去から未来に渡る無数の経路を考え、そのうち作用という量が最小となる経路が現実に実現する──これが解析力学の世界観である。
例えば、投げたボールが放物線軌道を描くというのも、これは放物線軌道が始点と終点を結ぶ経路のうち作用という量が最も小さい量であるからに過ぎない。この宇宙のあらゆる物体が辿る経路はあらかじめ作用という量が最小になるようなものとして決定されている。
余談だが、解析力学のこのような世界観は様々なジャンルの作家に影響を与えている。中でもテッド・チャンの「あなたの人生の物語」は有名だろう。映画化された際、このブログでも何度か紹介したが、解析力学による決定観は自由意志の存在を間違いなく揺るがせるものだろう。
ニュートン力学では現在の情報から、その次の無限小先の未来が決まり、さらにその次の無限小先の未来が決まっていき…と因果関係の連鎖が続いていくようにして時間発展が記述されるのであった。これに対して解析力学では、始点と終点は単なる境界点として扱われる。時空上の2点を指定すると、経路が1つに決定される。ここに逐次発展型の時間観はない。同じ決定論的といえる2つの力学体系も、このように異なる世界観を持つ。どちらも同じ”力学”であるから、同じ内容の予言を行うのは保証されている。
ちなみに「あなたの人生の物語」を読まれた人に補足をすると、解析力学におけるこの最小作用の原理はもっと一般的な名として変分原理と呼ばれている。数学的には、物理理論のあらゆる法則の殆ど全てを、解析力学の形式、すなわち変分原理の形で再記述することが出来る。実際この方が物理学者にとっても何かと扱いやすく便利で、例えば素粒子論などは作用という量からいつも出発する。昔、大阪大学で宇宙を支配する数式リングが売られていて、私もいくつか買わせていただいたが、このリングに刻印されている「宇宙を支配する数式」の左辺は作用Sである。つまりリングに刻印された異様に長い右辺のこの量が最小になるような経路のみが現実に実現する経路となる。

Amozonより引用
特殊相対性理論における時間観
まず相対性理論で頻繁に使うことになる「事象」という用語の定義を行おう。辞書を引くと、「事象」は「観察しうる形をとって現れる事柄」と説明されているが、物理学の文脈では少し異なる。相対性理論では、「いつ、どこで、何が起こったか」を指定した事柄のことを「事象」と呼ぶ。たとえば、「今、私はシャワーを浴びている」は事象である。「友人と3ヶ月前、ステーキを食べた」も事象である。ただし注意しなくてはならないのは、一般に命題は事象とはならない。「私はあなたが好きだ」や「空は青い」などの命題(真偽が判定できる文)は、事象とは呼ばない。場所と時間が指定されたときに、事象と呼ぶことにする。
さて、このように事象が定義されると時空という用語もそのまま定義することが出来る。時空は「時間と空間」と言っても間違いではないが、物理学的により正確には「あらゆる事象の集合」のことである。「あなたは今、中野のゴールドジムにいる」という事象と「3年後にサンフランシスコ空港でコーヒーを飲んでいる」という事象と…という具合にありとあらゆる事象を点としてプロットしていき、無数の点に塗り潰されて完成する1つの集合が時空である。それでは次に、時空を図にして描く方法を探そう。
とはいうものの、時空を図にするのは全く難しい話ではない。下図のように横軸を空間に(図では1次元)、縦軸を時間にとったような座標を用意すればよい。

これを時空図と呼ぶ。時空図上の点1つ1つが事象である。たとえば、駅前で静止している人は時空図上でどのように描かれるか考えてみよう。まず「駅前で静止している人」は事象としての要件を満たしているか確認する。「駅前」は場所を定めており、その人は現在時刻から未来に向かって「静止」している。これは「いつ、どこで何が起こったか」を指定しているといえるだろう。よって「駅前で静止している人」は事象である。すなわちこの事象は時空図上に描けなければおかしい。「駅前で静止している人」の時空図は下図である。

このように静止している物体は全て時空図上に直線で描かれる。物体の空間的位置は変わらないが、何もしなくても私たちは過去から未来に向かって運動しているといえる。時空上では動いていない存在などいないのだ。時空図上で等速で直線上を運動する物体は以下のように描ける。
このように等速運動する質点が描く時空図上の軌跡があれば、空間軸上の目盛りと時間軸上の目盛りを1対1に対応付けられることも分かる。数学的には、時間の目盛り→空間の目盛りと写像すると言ったりするが、この時空図のおかげで時間と空間を視覚的に等価なものとして扱うことが可能になっている。
それでは、光の軌跡はどうなるのだろう?光の軌跡は時空図上で傾き45°の直線になる。逆に光の軌跡が傾き45°の直線になるように、空間軸と時間軸の目盛りの方を定義する。つまり光が時間と空間の目盛り付けを決定すると考えるのだ。そしてこのように、時空図上で光の軌跡が傾き45°の直線として描けるような系を慣性系と定義する。

Wikipediaより引用
特殊相対性理論の2つの原理を導入した際、「全ての慣性系で光の速さは同じ」という観測事実がこの宇宙にはあるという話をした。実はこの言明は定義上明らかなことを言っているに過ぎない。光の速さが同じに見えるような系を慣性系(見方)と呼ぶのであって、それ以上でもそれ以下でもない。これはこのように言った方が正確であろう。
光の速さが同じに見えるような系(見方)が、この宇宙には存在する。それらを慣性系と呼ぶ。
これが特殊相対性理論の言わんとすることである。また上の主張に加え、相対性原理もあるのだった。相対性原理「全ての慣性系は等価である」はつまり、マシュー系と高橋系もその他全ての慣性系も価値としては同じものだということだ。1つの慣性系だけが特別ということはありえない、つまりこの宇宙のあらゆる慣性系は「同じ物理法則を待つべし」だということである。数学的には同型という。どれか1つの慣性系が特異な物理法則を持っていると、その慣性系は他の慣性系から区別されることになる。これは相対性原理に反する。よって全ての慣性系は同じ物理法則を持つ、という意味で等価なのである。
さて、ここからどう話が展開していくのか。前回で扱ったように慣性系から慣性系の変換はローレンツ変換によって与えられるのであった。マシューは自分の目から見た時空図を描くことが出来るし、異なる慣性系に属するボブが自分の目から見た別の時空図を描くことが出来る。これらの異なる2つの時空図の間を結びつけるのがローレンツ変換である。ローレンツ変換の実体には未だ迫っていないが、2つの慣性系における時空図では光が同じ45°の直線として描かれるのであったから、ローレンツ変換は光の速さを変えてはいけないことが分かる。
こうなると面白い帰結が得られる。速さという概念は(進んだ距離)を(経過した時間)で割った量である。つまり空間量を時間量で割った量だ。それぞれの慣性系で光は45°の直線として描かれるように空間、時間の目盛り方向は調整されている。マシューの系に対し、ボブの系は一定の速度を持っていたとする。そうだとしてもマシューから見ようがボブから見ようが光の速さは一定だ。これはどういうことだろう。
これは系から系の変換の前後で、空間量を時間量で割った量は変わらないが、空間量や時間量単体自体は変わりうることを意味する。光の速さが一定という条件を守るためには空間や時間の方に犠牲になってもらうしかないのだ。このため、観測者によって流れる時間が違うなどの現象が起こることになる。これは実に不思議なことだが、光の速さが慣性系に依らず一定なのだから仕方ない。これが相対論が描く世界の真の姿なのである。
光の速さの2つの意味
さて、ここまで3つの理論を跨いで時間観を概観することが出来た。2つの力学理論では、時間は全ての観測者で共通する自然が勝手に「流してくれる何か」に過ぎなかった。しかし特殊相対性理論では、慣性系ごとに光に対する自身の速度に対応して流れる時間が変化する。つまり宇宙をどの立場から見るかによって、流れる時間は変わるのだ。こうなったとき、時間は観測者それぞれに固有なものとして定義されることになる。つまりマシューが腕につけている時計が示すのが、彼の固有の時間である。観測者それぞれに固有の時間を紐付けたとき、それを固有時という。電車に乗っている私の固有時と家のお風呂に浸かって静止しているあなたの固有時は厳密に言うと僅かに異なる。このように、宇宙のあらゆる観測者に時計を各々に配ったことをアインシュタインは「私は全宇宙に時計を置いた」と表現した。
秒速30万kmという光の速さには2つの意味があるという話もしておこう。1つは現象としての意味。単に光は秒速30万kmで走行する、という文字通りの意味だ。2つめは情報伝達の速度上限という意味としての秒速30万kmである。これを数学的に証明するのは些か困難なので今連載では行わないが、光の速度を超えると複数回のローレンツ変換を通して、未来から過去に情報を伝えることが可能になる。物理学ではこれを因果律の崩壊と呼ぶ。これはあってはならないことである。つまり光の速度というのは、因果律を破らせないように存在する自然界の絶対的な壁のようなもので、これを飛び越えることは相対論の枠組みの中ではあり得ない。
光は波のイメージが強いかもしれないが、光子という粒子でもある。光子は質量を持たない。質量を持たないからこそ、光子は秒速30万kmで飛ぶことが出来る。質量を持つ物体は運動方程式からも明らかなように加速に力を要する。質量を持つ物体を光の速度まで加速するためには理論上無限大の力が必要になってしまい、これは当然不可能なことだと帰結される。それでは質量とはそもそもなんなのか、という疑問がここで浮かぶのは自然な話だが、ヒッグスの話まですると話が素粒子論の方まで飛んでしまうのでここではやめておこう。
とにかくこの宇宙では、45°の光の世界線(ヌル世界線とも呼ばれる)を飛び越えることは出来ない。過去から現在、そして未来という時の流れの中で我々は光の世界線に閉じ込められた存在である。これを時空図として描いた図が以下である。

Wikipediaより引用
円錐が2つ、現在値で上下にくっついてるのが見えるだろう。これは光円錐と呼ばれている。過去の光円錐にあるもののみが現在に影響を与えることが出来る。光円錐以外の領域は非因果的領域と呼ばれていて、この領域に侵入することは理論上不可能である。タイムマシンを作ることの難しさもこれで分かってきたはずだ。
さて、こんなところで2回目の連載は終わろう。相対性理論の言わんとすることが少しずつハッキリしてきたのではないだろうか。次回はローレンツ変換まわりの話をもう少し詳しく扱って、異なる系の時空図を1つの時空図に描く方法を探ることから始める。そうすることで時間の遅れ具合を図の上で計算することが可能になるからだ。
こんにちは!非常に読みやすく、とても参考になりました。当方、物理は高校までの専攻でしたので、細かいところまではわかりませんが、それを前提として書いていただいているので、ためになります。
お忙しい中かなり時間をかけて書いていただいていると思いますが、次回も楽しみにしております。完結したらもう一度インターステラーを観たいです。
インターステラーの考察配信から来ました。
すごく分かりやすくて、難しい内容でも少しずつ理解しながら、苦なく読み進められます。
続きが楽しみ…!
文系学生です。インターステラー内での相対性理論に興味を持ちこの記事にたどり着きました。読者にわかりやすく論理的に、相対性理論の生まれた過程や内容を丁寧に諭してくれて物理はこんな面白いことをやっているのかと、今まで物理を嫌悪していたことに後悔しております。文章の一文一文を吟味しながら楽しく読ませてもらっています。続きが楽しみです。